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東京地方裁判所 昭和60年(ワ)15452号 判決 1990年6月11日

主文

被告は原告甲野一郎に対し、金三三〇万円及び内金三〇〇万円に対し昭和六〇年八月八日から完済まで年五分の割合による金員を支払え。

被告は原告甲野花子に対し、金一六五万円及び内金一五〇万円に対し昭和六〇年八月八日から完済まで年五分の割合による金員を支払え。

原告らのその余の請求を棄却する。

訴訟費用は被告の負担とする。

この判決は原告ら勝訴部分に限り仮に執行することができる。

事実

第一  当事者の求める裁判

一  請求の趣旨

1  被告は原告甲野一郎(以下単に原告一郎という。)に対し、金一億四六二〇万五一〇六円及び内金一億三三二〇万五一〇六円に対し昭和六〇年八月八日から完済まで年五分の割合による金員を支払え。

2  被告は原告甲野花子(以下単に原告花子という。)に対し、金一六五〇万円及び内金一五〇〇万円に対し昭和六〇年八月八日から完済まで年五分の割合による金員を支払え。

3  訴訟費用は被告の負担とする。

4  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告らの請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  被告は、新宿区内に居住する心身障害者の福祉の向上を図るため、東京都新宿区立あゆみの家(以下単に「あゆみの家」という。)の名称で心身障害者通所訓練施設を設置し、同施設において心身障害者の相談、指導等、肢体不自由者及び精神薄弱者の通所による訓練指導等の事業を行い、右事業の一環として、地域に居住しながら何ら必要な援助を受けずに在宅の状態にある障害を持った乳幼児に対し、早期に福祉や保育に必要な相談及び指導を行うため、看護婦、保母等からなる在宅訪問チームによる在宅障害児訪問指導を実施しているものであり、廣瀬早苗(以下単に「廣瀬」という。)は後記本件事故当時あゆみの家の在宅訪問指導員であり、保母と看護婦の資格を有し、原告らに対する訪問指導を行っていた者である。

2  本件事故について

(一) 昭和六〇年八月七日廣瀬は、その職場として原告ら宅を訪問し、原告一郎を介護していたが、同日午後一時三〇分ころ、散歩に出かけた西戸山公園内において、故意または重大な過失または過失により原告一郎が乗っていたバギー(小型手押四輪車)ごと地面に横転させ、原告一郎に頭部、顔面打撲による裂傷等の傷害を負わせた。

(二) 原告一郎は、昭和五七年六月二三日に出生し、昭和五八年三月ころ東京女子医科大学病院で脳性麻痺の診断を受けたが、その症状は比較的軽いものであり、通常児に比べ遅れていたものの徐々に発達しており、本件事故前の六、七月ころは、有していた症状のてんかんの痙攣もなく、嘔吐も落ち着きを見せ、呼吸も喘鳴が非常に少なく良好な状態であり、運動機能の面では頚の坐わりもかなりしっかりして来ていたし、寝返りや、ベッドの上で足をけって動き回わることもでき、あぐらをかかせて手を離しても自分で体を支えられ、また支えてやるとしっかり立つこともできたし、トイレで排泄を行うこともできていたし、また情緒、知能の面では、名前を呼ばれれば反応し、「オカア」などの言葉も発し、声を出して笑ったりするなどの喜怒哀楽の感情表現も豊になっていた。

(三) 本件事故後原告一郎の症状は一変し、事件後一時間半ないし二時間半後には激しい痙攣が起き、その後もその症状はひどくなる一方であり、その回数も当初は一日一〇〇回くらいであったが、その後一〇〇〇回にも達し、痙攣の外に強い緊張や反り返りが頻繁に起き、体温調節も不全となり三八度を越す高熱が続き、血がまざった激しい多量の嘔吐を繰り返し、喘鳴がひどく呼吸も不全であり、首の坐わりもなくなり、運動機能も喪失し、座ることも寝返りを打つこともできず寝たきりの状態になり、豊かな感情表現を見せることも無くなった。

(四) 原告一郎の本件事故後の症状の悪化は、本件事故により原告一郎が傷害を負った結果発生したものであり、被告は国家賠償法一条一項によりその損害を賠償する責任がある。

3  損害

(一) 原告一郎

(1) 逸失利益 金四三六四万八五六七円

原告一郎は、本件口頭弁論終結当時満七歳の児童であり、本件事故に会わなければ満一八歳から六七歳までの四九年間就労が可能であり、その間昭和六二年度賃金センサス産業計、企業規模計、学歴計、男子労働者の全年齢の平均賃金である年金四四二万五八〇〇円の収入を得たはずであるところ、本件事故により労働能力を一〇〇パーセント失ったから、ライプニッツ式計算方法により中間利息を控除してその逸失利益を計算すると金四三六四万八五六七円となる。

(2) 付添看護費用 金五九五五万六五三九円

原告一郎の症状は重く、その介護は一瞬も目が離せず、原告花子が昼夜を分かたずその任にあたっているものでありその実態から職業的付添人と同等の介護費用が認められるべきであり、その額は一日金七〇〇〇円が適切である。

そして過去四年分についは一年三六五日として計算すると金一〇二二万円となり、将来分については満七歳の人間の平均余命は六九・二一年であるから、ライプニッツ式計算方法により中間利息を控除して付添看護費用の現在額を計算すると、金四九三三万六五三九円となり、合計は金五九五五万六五三九円となる。

(3) 慰謝料 金三〇〇〇万円

廣瀬が起こした本件事故により、原告一郎は生涯寝たきりの生活を送らなければならないし、嘔吐、痙攣を繰り返す地獄の日々を余儀なくされたもので、その精神的苦痛を慰謝するには金三〇〇〇万円が相当である。

(4) 弁護士費用 金一三〇〇万円

原告花子は原告一郎の法定代理人親権者として訴訟代理人に本件訴訟を委任し、弁護士費用として認容額の一割を支払う旨約した。

(二) 原告花子

(1) 慰謝料 金一五〇〇万円

廣瀬が起こした本件事故により、原告花子は一生原告一郎の介護にあたることを強いられ、健康を害し、美容師としての仕事も出来なくなったもので、その精神的苦痛を慰謝するには金一五〇〇万円が相当である。

(2) 弁護士費用 金一五〇万円

原告花子は訴訟代理人に本件訴訟を委任し、弁護士費用として認容額の一割を支払う旨約した。

4  よって、原告らは被告に対し、国家賠償法に基づき、原告一郎は金一億四六二〇万五一〇六円及び内金一億三三二〇万五一〇六円に対する本件事故後の日である昭和六〇年八月八日から完済まで民法所定年五分の割合による遅延損害金の、原告花子は被告に対し、金一六五〇万円及び内金一五〇〇万円に対する右同日から完済まで右同一の割合による遅延損害金の各支払を求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1の事実は認める。

2  同2の事実中廣瀬が昭和六〇年八月七日その職務として原告ら宅を訪問し、原告一郎の介護をしていたこと、同日午後一時三〇分ころ散歩に出かけた西戸山公園内において廣瀬の過失により原告一郎が乗っていたバギーが横転し、原告一郎が受傷したこと、原告一郎が昭和五七年六月二三日出生したこと、脳性麻痺の診断を受けていたことは認めるが、その余は否認する。

原告一郎は出生後脳性麻痺に罹患し、身体障害一級、精神薄弱二度(重度)の認定を受け、その症状は嚥下障害、てんかん、睡眠障害、体温調節障害、気管支喘息、易嘔吐性など重篤なものであり、原告が主張する本件事故後の症状は、いずれも本件事故前からあったか、有していた症状が年齢などの諸要因によって変容、進行したものである。原告一郎が本件事故により受けた傷の程度は極めて軽いものであったから、本件事故と原告一郎の事故後の症状との間には相当因果関係はなく、その基礎となる疾患に基づくものである。

3  同3の事実は否認する。

原告一郎の症状からすると本件事故が発生しなかったとしても就労は困難であったし、また事故前と同様将来に渡って付添看護が必要であり、原告一郎にはこの点についての損害は存しない。

第三  証拠<略>

理由

一  請求原因1の事実は当事者間に争いがない。

二  同2の事実中廣瀬が昭和六〇年八月七日その職務として原告ら宅を訪問し、原告一郎の介護をしていたこと、同日午後一時三〇分ころ散歩に出かけた西戸山公園内において廣瀬の過失により原告一郎が乗っていたバギーが横転し、原告一郎が受傷したこと、原告一郎が昭和五七年六月二三日出生したこと、脳性麻痺の診断を受けていたことは当事者間に争いがなく、右争いのない事実に<証拠略>及び弁論の全趣旨によれば次の事実が認められ、右認定に反する<証拠略>は前記関係各証拠に照し採用できず、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

1  昭和六〇年八月七日あゆみの家の在宅訪問指導員で保母と看護婦の資格を有していた廣瀬は、原告一郎の介護のため原告ら宅を訪問し、午後一時三〇分ころ原告一郎、その母親の原告花子、廣瀬の三名で近くの西戸山公園に散歩にでかけ、右公園内において、原告花子が原告一郎の写真を撮影していたことから、廣瀬において笑顔を写させたいと思い、そのため原告一郎が乗車していたバギーを動かせば喜んで笑顔を見せるのではないかと考えて、バギーの左右の取手を左右の手でそれぞれ握り、前輪を浮かせ、後輪を軸に数回まわったところ、自己のバランスを崩すともに、回転させたバギーや原告一郎の遠心力が加わった重量などにより、バギーを支えきれなくなって両手を放してしまったため、原告一郎ごとバギーが地面に横転し、原告一郎は右顔面、右頭部打撲により全治一週間を用する擦過傷等の傷害を負った。原告花子らは直ちに原告一郎を抱き起こし、傷口を湿したタオルで拭いたのち、泣きやむまで暫くの間公園内で過し、その後原告ら宅に戻って傷口を消毒した。原告花子は原告一郎の負傷が頭部と顔面であったことから不安になり、かかりつけの心身障害児総合医療療育センター(以下単に「療育センター」という。)の北住映二(以下単に「北住医師」という。)医師に連絡を取ったところ、右北住医師は容体を聞き緊急に処置することはないと判断し、翌日墨東病院でコンピューター横断層撮影検査(以下単に「CTスキャン」という。)を受けるよう指示した。そして翌九日原告一郎、原告花子、廣瀬の三人で右検査に赴いたが、検査の結果は別段の異常は認められなかった。原告一郎の負傷は当日は多少の出血があり腫れがあったが、その後治療することもなく約一週間で自然に治癒した。さらに同年一〇月ころ同じくCTスキャンを行ったが出血等別段の異常は認められなかった。

2  原告一郎は、昭和五七年六月二三日在胎三二週で体重二四二〇グラムの未熟児として出生した。出生後原告一郎の体調は黄疸等の症状があり思わしくなかったが、二ヵ月間の集中治療の後、同年八月末ころ退院した。そして出生後五か月たったころ、原告一郎は頚の坐りがないなど様子がおかしかったことから東京女子医科大学病院で診察を受けたところ、脳性麻痺の徴候が認められ中枢性運動協調障害(重症)との診断を受け、昭和五八年一月ころから同年三月ころまで同病院に入院したが、退院のころ脳性麻痺の診断を受けた。そして昭和五八年九月ころから療育センターに入院または通院するようになり、またあゆみの家の療育指導を受けるようになった。そして原告一郎は同年四月ころ精神薄弱者福祉法による精神薄弱二度(重度)の認定を受け、さらに同年一一月ころ身体障害者福祉法による身体障害の程度等級一種一級と認定された。

原告一郎の脳性麻痺による運動機能障害については、右身体障害者の認定を受けた当時においては頚の坐りがなく、坐位保持不能、寝返り不能、右上下肢の動きが非常に乏しく、左上下肢は自動運動はかなりあるが随意性が極めて乏しいものであり、把握運動は不能で、目で物を見る反応がはっきりせず、精神面では、あやしても笑わない等の状態であったが、これらも徐々にではあるが改善されてきており、本件事故直前ころにおいては、頚の坐りは完全ではないが、ある程度のコントロールはできるようになっており、自ら座ることはできなかったが、座らせてやると多少の間その姿勢を保つことができ、這行動や、立歩行はできなかったが、仰向けに寝た姿勢で足を使って多少移動することができ、何かの拍子で寝返りを打つこともあり、物を持たせると握ることができたし、興味や動きのあるものについて、目でそれを追う反応もあり、精神面では、あやしたり機嫌が良いと笑顔を見せたり声を出して笑うこともあり、明確に了解可能な発語はなかったが発語様のものはかなりあったし、また名前を呼んだり、話しかけたりするとこれに返事をするかのような反応も認められるようになっていた。

原告一郎に認められる他の症状としては、てんかん、呼吸不全、易嘔吐性、体温調節障害、嚥下障害、睡眠障害等があった。

てんかんについては、昭和五八年一月に東京女子医科大学病院に入院したころは、その発作として両眼球が上転し、四肢をピクッとするもの、頭をガクッとするもの、意識消失するといった一連の小型運動発作が一日に一〇回から二〇回認められ、同年八月から九月末まで府中の神経病院に入院したころには、これに加え両腕をのばしたり、眼振をともなったり、全身を硬直させる等の発作が一日に二〇ないし三〇回認められ、同年九月末から同年一一月まで療育センターに入院時には、同様の発作が一日に四〇ないし五〇回観察された。そして療育センター退院時には回数は減っており、翌昭和五九年二月ころにはさらに少なくなったこともあったが、同年中は変動があって良い時も悪い時もあり、少ない時で一〇回くらい、多い時で五〇回ほどの発作が認められ、その程度も強い時も弱い時もあったが、昭和六〇年二月に療育センターに入院した時には見受けられず、脳波検査の結果も以前に比べ異常波が減っており、同年三月から五月ころは三〇回前後、同年六月ころには一五回から二〇回くらい、同年七月ころには五回から一〇回、七月の終りから八月の本件事故直前までの約三週間は明確に発作と分かるものは認められず、発作様のものが多少観察されるほどになっていた。

呼吸不全については喉に痰が絡んでゼコゼコする喘鳴が昭和五八年中から認められ、療育センターを昭和五八年一一月に退院した時点では改善が認められたが、昭和五九年中は良い状態や悪い状態もあって変動しながら過ぎ、昭和六〇年二月から四月にかけては気管支喘息を煩って悪い状態であったが同年六月ころは良い方に向かい、本件事故直前ころにはだいぶ改善していた。

易嘔吐性については、昭和五八年ころより少量ではあるが一日に一回から三回程度の嘔吐が認められたが、同年一一月療育センターを退院時には改善されており、その後暫くの間認められなかったが、昭和五九年九月ころより再現するようになり、それが徐々に強くなり、ひどいときには栄養分を注入するため挿入してあるカテーテルまで吐くこともあり、この状態は昭和六〇年に入っても続き、同年三、四月ころには、原告一郎の食道と胃の間の接合部分に欠陥があり、その部分が嘔吐などによる胃からの逆流によって傷つけられ、それほど多量ではないが嘔吐物に血がまざることもあったが、同年六月ころには良くなってきて、本件事故直前には嘔吐はあったことはあったが小康状態であった。

体温調節障害の点は、もともとその調節が良いほうではなく高めであったが、昭和五八年度中にはそれほど顕著ではなく、昭和五九年の体調が悪い時には体温の調節も不良で三八度前後の発熱がしばしばあり、昭和六〇年に入ってもその状態が続いていたが、本件事故の直前においては多少改善され、大体三七度から三八度の間で推移していた。

嚥下障害については脳性麻痺による運動障害の表われの一つであるが、水分や食物を飲み込むことが不良であり、昭和五八年七月ころより鼻から胃へ管を通して直接栄養を補給しており、本件事故前において多少は口から摂取できたものの依然として不十分であり、右状態が続いていた。

睡眠障害については睡眠のリズムが不安定で夜間眠らなかったり、啼泣が著しいことがあり、これは昭和六〇年四月ころも存したが、本件事故直前には多少の改善が認められた。

原告一郎の症状は本件事故以前の悪い時に比べると、本件事故直前において総体的に改善されてきており、良い方向へ向っていたが、まだ不安定であり、多少の環境の変化によって影響を受けることが考えられたし、また将来就労が可能かについてはまったく不明であり、原告一郎の日常生活の全てに渡り介護が必要な状態が、今後なくなるか否かも不明であった。

3  本件事故後の原告一郎の状態は、その数時間後本件事故前の約三週間ほど姿をひそめていた四肢をピクッとさせるてんかんの痙攣発作が再現し、その程度は割合強く、回数もその日のうちに三〇回以上を数え、三八度前後の発熱もあり、嘔吐の回数、量とも多めであった。翌日原告一郎らが墨東病院へCTスキャンを撮りに行った際や、同月一六日北住医師が原告一郎を往診した際には、本件事故以前の症状と別段異なった所見はなかったが、本件事故の翌日以後もてんかんの痙攣や発作や嘔吐が続き、その回数、程度も日を経るにしたがって増加する傾向にあり、また呼吸障害(喘鳴)も強くなっていき、他に体全体を硬直させたり、そり返ったりしがちになり、発熱も三八度台のものが多かったし、睡眠障害や嚥下障害の程度もしだいに悪化していった。そして同月二五日から二六日にかけては嘔吐により栄養補給用の管まで吐いてしまい、痙攣発作等によって管がうまく入れられないということで療育センターに入院し、また同年九月三〇日から同年一〇月一〇日までは痙攣発作、嘔吐、高体温の治療のため同所に入院した。その入院中てんかんの痙攣発作が日に一〇〇回以上認められ、その程度、回数、形態とも本件事故以前のものとは異ったものが発現していた。原告一郎は本件事故以前から食道と胃の間の接合部分に欠陥があり、嘔吐物に血がまじることがあったが、本件事故後嘔吐回数が増加したことや、全身の硬直、そり返りなどによりその部分がさらに悪化し、血液が嘔吐物にまじる回数、量が多くなったし、血便も認められ、貧血のため輸血を必要とする場合も生じている。また運動機能については、本件事故前には多少はあった頚のコントロールや、坐位の保持、仰臥位で足で床を蹴っての移動等はできなくなり、本件事故後においては、不機嫌な時がしだいに多くなり、笑顔や笑い声を出すこともしだいになくなり、また視覚反応(固視、追視)の低下、名前を呼ばれたり話しかけたりした場合に見せていた反応や、さかんにしていた発語様の発声も段々なくなっていった。そして原告一郎の症状はその後も悪化し、加えて抗痙攣剤の副作用と考えられる肝臓障害も顕著になり、身体全体を硬直させる度合が強くなったことによると思われる左股関節の内転拘縮が強くなるなど二次的な障害も発生し、現在においてはてんかんの痙攣発作が日に七〇〇回を超えるなど重篤な症状を呈しており、回復は困難な状況にある。

北住医師は、本件事故後の原告一郎の症状の変化について本件事故前まで良い方向に向かっていたものが、本件事故による負傷がきっかけとなって良い調子が崩れ、有していた脳性麻痺等の基礎となる疾患に、負傷自体の衝撃、症状悪化により運動機能などのリハビリテーションや遊びが出来ないことなどによる精神的なフラストレーション、その他種々の内的、外的要因が複合した結果によるものであると説明している。

右認定事実により被告の責任について検討する。

まず廣瀬の行為についてであるが、廣瀬は保母と看護婦の資格を有し、前記関係各証拠によれば、訪問指導員として相当程度の経験を有し、原告一郎の訪問指導を以前からおこない、その症状も十分知っていたと認められるから、原告一郎をバギーに乗せて散歩するにあたってはバギーの操作は慎重に行い、転倒させて負傷させることなどないようにする注意義務があったにもかかわらず、これを怠り、笑顔の写真を母親に写させるため、バギーの後輪を軸に前輪を上げて数回まわり、バランスを崩すなどしたことから支えていた手を放し、バギーごと転倒させて負傷させたというのであるから廣瀬に過失があったことは明らかであり、その過失の程度としては重過失があったとまでは言えないが、軽率な行為であって比較的重いものといわねばならない。

この点について原告らは廣瀬は故意に転倒させ原告一郎に傷害を与えたと主張し、原告花子の本人尋問の結果中にはこれに沿う部分があるが、右部分は前記関係各証拠に照らし信用できず他に原告らの主張を認めるに足りる証拠はない。

次に原告一郎の症状の変化と本件事故との相当因果関係についてであるが、原告一郎の脳性麻痺等の発病から本件事故の直前までの間において、その症状が重い時もあったが、本件事故の二、三か月前からは良い方向に向かっていたところ、本件事故がきっかけとなって良い調子が崩れ、悪化の方向に向かい、その主な要因はもちろん原告一郎の罹患していた疾患にあったが、本件事故による負傷も多少なりともその症状の悪化に影響を及ぼしていることが推認され、このようなことはありがちなことであるから本件事故と原告一郎の症状の悪化との間には相当因果関係があるというべきである。

以上によれば被告には原告らが被った損害を賠償する責任があるというべきである。

三  損害について

1  前記二で認定した事実によれば、原告一郎は本件事故の直前において、将来就労が可能であるかについてはまったくの不明であり、また当時日常生活の全てに渡り介護が必要な状態であり、将来その必要がなくなるか否かも不明であったというのであるから、就労が可能であり、介護が本件事故直後から必要でないことを前提とした逸失利益、付添介護費用の請求については根拠がなく認められないものというべきである。

2  そこで慰謝料についてであるが、二記載の関係各証拠によれば、本件事故は廣瀬の軽率な行為によるものでありその過失は比較的重いものであること、原告らは原告一郎の発病以来共に闘病生活を送り、一時は重い症状を呈する時期もあったがそれを乗り越え、病状も良い方向へ向いはじめた矢先に本件事故に合い、症状は一転して悪化の道をたどったものであり、回復への希望を失わせたものであって、原告らの悲歎には大きなものがあること、原告花子は原告一郎の介護のために身心ともに憔悴し、自己自身の健康を害するようになっていること、原告一郎の病状の悪化の主要因は原告一郎の有する疾患によるものであり、本件事故による負傷は病状悪化に向かわせるきっかけとなり、また多少の影響を与えたにすぎないこと、原告一郎の本件事故直前の状態はいまだ安定したものではなく、多少の環境の変化などによって症状が悪化する可能性があったこと、本件事故による負傷の程度は腫をともなう全治約一週間の擦過傷という軽いものであったこと、被告は原告花子の介護の負担の軽減をするため家政婦を週三回一日六時間あて派遣していること、廣瀬において見舞金として金三〇万円を支払っていること、その他本件に表われた一切の事情を考慮すると、原告一郎の慰謝料は金三〇〇万円、原告花子については金一五〇万円が相当である。

3  弁護士費用

弁論の全趣旨によれば、原告らはその訴訟代理人に本件訴訟を委任し、相当の報酬を支払う旨約したことが認められ、本件事案の性質、内容、審理の経過、認容額などに鑑みると、原告らが賠償を求め得る弁護士費用は、原告一郎が金三〇万円、原告花子が金一五万円とするのが相当である。

四  結論

以上によれば原告らの本訴請求は、被告に対し、原告一郎は金三三〇万円及び内金三〇〇万円に対し本件事故による負傷以後の日である昭和六〇年八月八日から完済まで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で、原告花子は金一六五万円と内金一五〇万円に対し右同日から同割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるから右各限度で認容し、その余は失当であるから棄却し、訴訟費用の負担については民訴法八九条、九二条但書を、仮執行宣言につき同法一九六条一項を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 上野至 裁判官 姉川博之 裁判官 古閑美津惠は転勤のため署名捺印できない。裁判長裁判官 上野至)

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